“普通”のプロデューサーさんへ、普通ってなんですか
また、また、“普通”のプロデューサーにブロックされていた。
最初はそうだよな、俺は異端だよなと思った。が、考えれば考えるほど“普通”ってなんだろうと思った。
アイマスpにおける、“普通”とは一体なんだろうか。
担当がいるから?その中の人のファンでもある?
私には、わからない。
“普通”がわからない。
でも、私みたいにクリエイターまで好きになってその中で既に退社して、もはや関係ないとまで言われるディレ1を担当して、プロデュースしている、と言っているのはいささか知ってる人によれば滑稽に見えるんだろうなと思った。
だから私は“普通”ではないのだろう。
そもそも私がアイマスpになる流れも“普通”じゃないのかもしれない、私がそう思ってるだけで“普通”と思うかもしれないが。
私がアイマスpになる過去のことを話す。
私がアイマスpになったのは井上拓と増渕裕二のおかげだ。元音ゲーマーで『夜明けまであと3秒』で井上拓の曲にどハマりして、それで「一回ぐらいはイノタクの曲を全曲聞くか」と一曲ずつ漁っていった。それでみりあちゃんに出会った。一目惚れだった。
亜美も同じような出会い方だった。増渕裕二さんの曲が好きで『黎明スターライン』を知り、亜美を知った。だからアイマスで始めて、2番目に買ったCDはみりあちゃんのCMと亜美真美と律子さんのマスタースペシャルだった。
これが私がアイマスpになる主な要因だ。
これが“普通”に見えているだろうか。
担当はあと3人、いや5人いる。出会い方は多分私の中では“普通”だと思う。なんとなく、普通なのだろうと漠然としてはいるがわかる。ただ、最後の2人は除いて。
3人、それは絵理と紬と千雪さんである。絵理はデレマスのイベントで『ピーン』ときて、担当になった。ディアリースターズも買った。紬はミリシタのサービス開始当初のリセマラで何度やっても紬しか出なかった。それで渋々紬にしてたのだが、フェス限が当たって担当にすると決めた。千雪さんはシャニマスで始めて思い出を5にした思い出深いアイドルだ。
最後の2人、石原章弘と福原哲也。
ほら“普通”じゃないんでしょう?
石原章弘は765万歩譲っていいとしても福原哲也はそもそもアイマスじゃないだろうって。
きっと思うんだろう。9割9分9厘のプロデューサーがそう思うんだろう。そもそも石原章弘も福原哲也も知らないプロデューサーもいるだろう。
でも私は、担当している7人のうちで一番担当として尽力を尽くしてるつもりなのが石原章弘、ディレ1だ。
ディレ1、石原章弘。アイマスの元総合ディレクターであり、ウマ娘の元コンテンツプロデューサー。一言で言い表すなら『ただのエライおっさん』である。でも私はその『ただのおっさん』に心を惹かれた、いや、奪われたといった方が正しい。それぐらい衝撃を、慟哭を、言い表せないような感情を、抉られ、奪われ、愛を注いだ。おそらく側からすれば“酔狂”なのだろう。
ある人からすればアイマスを殺しかけた人という認識を持っているだろう。ある人からすれば声優の当てはめ方が上手なただのエライおっさんなのだろう。あるいは、ウマ娘から逃げたとか、クビにされたとか思ってる人もいるだろう。
でも私はそんなディレ1の過去を真摯に受け止め、クリエイターとしてではなく、アイドルとしてどう昇華させるべきかを考えていた。
そのくらい、本気だ。本気で“プロデューサーごっこ”をディレ1に対してやっていた。アイドルへではなく、1人のクリエイターへ向かってやっていた。
この時点で愛の向き方が“普通”ではないのだろう。
きっと“普通”は中の人、声優さんの方へ向かっていくのだろう。だが、私は違った。私はクリエイターの方へ向かっていった。かつて私がスマブラの桜井政博に夢中になったように、ゲーフリの大森滋に夢中になったように、当たり前のようにクリエイターの方へ愛は向かっていった。
それが“普通”ではない、“異端”なのだろう。私にとって自然な“普通”の愛の向かい方が、一般的なアイマスpにとって“異端”なのだろう。
それは痛いほど感じる。
それが“普通”のプロデューサーからみて“異端”であり、人によっては『気持ち悪い』『晒しあげる』『一緒にするな』なのだろう。全部私にかかってきたアイマスp達の言葉だ。
私は愛をかける方向性が違うだけで愛のかけ方は同じだと思ってるのだが。
私は生っすか2015でガミpとフェチ川が笑って風呂の話をしていた時に照れているディレ1を見て衝撃を受けてからずっと担当を名乗り続けている。私が生っすか2015の動画を見た時はもうディレ1は退社してたが。
ディレ1の画像欲しさに2009年の電撃PSと電撃マ王も買った。2009年のsakusakuの画像があれば当時のブログから画像をダウンロードした。アイマス2時代のNHKの特集のアーカイヴも見た。目覚ましテレビに出てた時はその時の映像を探した。
“普通”のアイマスpが中の人の画像を保存するかのように中の人の写真集を買うかのように、私は“普通”にディレ1の画像を集め続けた。
行為としてはごく“普通”のオタクだ。
それが対象が違うだけで“普通”のプロデューサーから“異端”と言われた。拒絶もされた。だが、拒絶されてもディレ1がいたから耐えられた。ディレ1という心の支えがいた。ディレ1は私に痛みを忘れさせてくれた。生き甲斐もくれた。
私にとってディレ1はモルヒネだった。
痛みを忘れさせてくれた。
そのモルヒネは唐突に底をついた。
つい、先日。5月8日。
私は鬱気味だった。どうしようもなく具合が悪く、午前中で学校を早退した。家に帰ってスマホの電源を入れ、ツイッターを開いた。
知り合いからのリプライで知った、ディレ1の退社。
トレンドのプリティーダービィー、ディレ1という言葉が否が応でも私の意識を掻っ攫った。
最初は現実を受け止めようとした。が、時が経つにつれて思考は底なしに減算されていった。なんとなく、なんとなく5thの雪歩pの気持ちや2011年のTGSにいた律子p、伊織p、あずさp、亜美pの気持ちがわかった気がした。ディレ1だから加害者なのだろうが。
『どうしようもない』
『自分は何もできない無力な存在』
『ただ、金を落とすことしかできない』
脳裏によぎる。
自分は無力。ユーザーは無力。そんな現実を叩きつけられた。
悲しみのあまりディレ1が退社したとわかった次の日1日何も食べられず、自室から出られなかった。
数日間、喪失感に襲われ、ただ学校生活を送ることだけをしていた。
ふと、私は思い出した。当たり前のようなことを思い出した。
私がやっているのはアイマス“だけ”じゃないことを思い出した。まだある、まだ私はディレ1以外にも何かを、その何かはそれは自分が生きる糧、いやプロデューサーごっこを続けられる“アイドル”を見つけられるのではないのでは、と。
アイマスと関わりがあって、それでいてアイドルが表に出てきて、私が前に通った道、音ゲーではないゲーム。
グランブルーファンタジー、グラブルがあった。
また、私は世間一般の“異端”の道を進んだのだろう。もうわかってしまうだろう。現代文の問題ならば「それでいてアイドルが表に出てきて」の『アイドル』は何を指しているか?と配点1点の問題で書かれそうだ。
ディレ1を始めた時と同じように私は衝撃を受けた。ディレ1が退社して落ち込んでいたのも衝撃の強さに拍車をかけたのだろう。
その衝撃はベリアルのキャラ性でもない。ましては『どうして空は蒼いのか』と『000」のストーリーでもない。ゲーム内の内容じゃない。
また“普通”なのだろうもの以外、回りくどい表現だが“異端”なものに対して衝撃を受けた。
また、ゲームディレクターに衝撃を受けてしまった。
まただ。2度目、いや3度目だ。ゲームディレクターに衝撃を受けたのは。大森滋、石原章弘に続いて3度目だ。アクション系のゲームならいい加減学べって言われそうだ。3回も同じ攻撃、いや思考的な衝撃を受けたのだから。
福原哲也。私が新しく担当を名乗り始めた“アイドル”である。
現実の話をするならばグラブルのディレクターだ。ただのエライおっさんだ。
どこに衝撃を受けたのか、それはみりあちゃんと同じだった。一目惚れ。至極単純な話、顔だった。顔で惚れるのは至って“普通”だろう。対象が“異端”なだけであって。
ここまで倩と書いてきて、私というプロデューサーは普通なのか。はたまた、異端なのか。きっと異端なのだろう。クリエイターをプロデュースしたい、いやしているのが異端なのだろう。
そもそも私の中での普通がそもそも普通なのか。
アイマスpにおいての普通とは、なんだろう。
最後に問おう。アイマスのプロデューサーにおいての普通とはなんでしょうか。私にはもはや考えようがない。
貴方の意見をお聞かせ願いたい。