believe_meのブログ

つらつらつらつら

雑記

冗談が通じないって苦しい?

とある発達障害の人のツイートがTLに流れてきたのでなんとなく触発されて書くことにした。案外単純な思考回路をしていると我ながら思う。

本題。ここ数年で私の人生は辛いと感じるようになることが増えた。思春期に入り始めた中1の頃から“我”がどれほど周りと比べて異質なのかを知ったからだと思う。少なくとも小学生の頃までは楽しかったのを覚えている。もちろん先生に怒られて辛かったことはあるが、楽しかった思い出の方が強い。

当たり前だが小6の後半あたりから思春期に入る。でもって中1には完全に思春期に入る。中1の頃は小6となんら変わらなかった。途中までは。

中1、ある日を境に自分の自由な行動がどれだけ周りにとって腹ただしく見えてくるのかを知った。

帰り際に車の窓から友達に手を振ったり、先輩呼びが嫌でなるべく会わないようにしたり、赤の他人を間違えて母さんと呼んだりするのが、常識と違うから腹ただしく見えてくるというのを知った。

それと同時に部活での先生と先輩の矛盾した指示の違いに混乱し、先輩から怒鳴られる。挙句、吹奏楽部にいたので楽器の運指を覚えるのに数ヶ月かかった。周りは1週間とか長くても1ヶ月で覚えてた。その自分の不器用さに先輩は腹を立ててた。部活の時間は毎回、怒鳴られるのが当たり前になった。

 部活だけじゃなかった。中学校になったらオタクの友達も増えるかなと思ったらそんなことはなかった。周りは全員、普通の人間で唯一別の人間であった私を寧ろ蔑むような、玩具にされるような、そんな扱いばかりされてた。

 年上と年下にオタクの友達は増えたが同い年の、同じクラスの友達にそんな友達はいなかった。

勉強すら塾に行っても伸び悩み、テストの答案が返された時の母親との会話が気まずくなることも多々あった。母親も私の不甲斐なさに腹が立っていたと思う。

中1の中頃、私はたまに保健室に行くようになった。しばらく休んだらまた授業に戻る、そんな感じだった。そんなことをしたら長く持たないからと中2の頃にはその癖を自主的に治した。

中2の頃は比較的穏やかに周りと波長を合わせて過ごせたのは覚えている。前述したオタクの友達と会話する頻度が高かったからだと思う。ただ、それ以外のことが覚えていない。穏やかに周りと合わせて過ごせていたことだけしか覚えてない。修学旅行は京都の文化財を知る体験版に過ぎなくて、楽しかったのに途中で強制終了させられた感じがした。

中3。一番篭ってた。中3に限って学級崩壊を起こし、授業なんて出来る雰囲気ではなかった。月に一度、保護者会が行われたほど荒れていた。そんな流れのせいで不登校ではなかったが保健室に篭っていた。3学期になる直前まで篭っていた。もうこれ以上は思い出したくない。どんなに辛いと訴えてもバカにされて返された記憶しかないからだ。

高校。高校に入学したからには不登校も保健室にも篭らずに課題をやってちゃんと授業を受けて、周りと一緒に行動しようと思ってた。

結果、無茶をしたせいで1年の冬頃に風邪をひき学校を1日休んだ反動で1年間ずっと辛かったことしか思い出せず母か祖母かに明日は学校行けるねって言われたのをきっかけに

「学校行きたくない」

と言って泣きじゃくった。その後只事ではないと思ったのか母が担任の先生に連絡したのは覚えてる。

その後どうなったか、未だにはっきり覚えてない。しばらく学校休んで、保健室登校はしてた気がする。高1のこの期間の記憶はあまりない。

高2。多分も何も一番辛かった。学校に行きたくない原因の一つである、とある先生がまたとある授業の担当の先生になっていた。その際で恐怖に震えながら授業を受けてた。ある日、成績のいい人とあまり良くない人とで授業を受ける人を分けようとなった。私はその授業の成績は良くなかったがトラウマの先生の授業は良くない方だったので成績のいい方に入ろうと担任の先生に言われた。

トラウマ元から離れればなんとかなるかなと思い、その通りに別クラスの方に行って授業を受けた。授業が終わり、これなら行けそうだと思った矢先、トラウマの先生が隣の自分のクラスの教室から出てきた。

その先生は、仏頂面で私に迫った。

私の授業に何でいなかった、とか他のところにいるならそう私に伝えろとか、そもそも課題を〜や、余裕なんだから私の授業は受けないんだろう…等。

1年の頃からその先生から矢面に立たされると何も言えなくなり、途中から泣いてしまい、最後には過呼吸になるほどその先生がトラウマだった。再出発を始めた矢先に私は学校に来れなくなる原因と鉢合わせた。しかも廊下で起きたせいで周りに見られてる。だから耐えなきゃと思ってたのも砂の山のように簡単に崩れ、涙と過呼吸が止まらなくなった。その異常な状況で騒ぎになってたらしく、学年主任の先生が駆けつけて事態は収束した。

この出来事のせいでその先生が異動になった今でも、その教科の授業にあまり出られなくなってしまった。

その教科そのものが恐怖になってしまった。

恐怖に怯える傍、歴史の授業が心の支えだった。日本史とは違う、特殊な歴史の時間があり、その先生がその日は課外学習が多いからという理由で4時間目から6時間目まで歴史の授業が入っていた。その先生曰く、昼休みが20分しか取れなくて昼飯を食べる時間がないから4時間目から取った、と言ってたこを覚えている。学校バレが怖いのでこれ以上は伏せるが、水曜日の昼から午後は楽しくもあり、慰めの時間でもあった。

退学するか、転校するかという話も出てたがこの歴史の授業のおかげで何とか同じ学校にいられた。

あとはアイマスを知ったことも大きい。そこで知り合った人と話すのが楽しかったのもある。

もちろん衝突もあってそれに気を病んだことも多々ある。衝突した挙句、人生で一番気を病み、自殺行為までしかけた出来事があったがそれを書くとまた厄介ごとに成りかねないので省略。

その厄介ごとの所為で私の前のツイッターアカウントは一発で永久凍結されたとだけ書いておく。


そして現在。今の心境はどうかというと割といい方ではあると思う。自分でこうすれば一番ストレスにならないで済むとか、こんなことをしたらまた憂鬱になるから避けるというのが自分でわかってきたからだ。

ただ、逃げるのは楽だがそれは他の人から見れば甘えになる、しかし逃げなければ私の精神はまたストレスに押し潰されてしまう…その考えがずっと頭の中でぐるぐるしている。

そして、理解されずに馬鹿にされるという出来事がリアルじゃない、オタクのつながりの中で起きている。

こういうのが嫌なんだ、不快なんだ、と本心から言っても馬鹿にされ、それこそ玩具にされる。

そして、メンヘラと笑われ、虐められ、好きなことさえ『気持ち悪い』の烙印を押され、怖いもの見たさでその人から見れば『気持ち悪い』私の好きなことを笑い、玩具にされ、晒しあげられる。

本当に苦しんでる中で、身体中を蹴られ、殴られるような感情を超えた、虚しさを感じた。


私を嘲るように笑った、その声がこびりついて離れない。

異端の私に現実でも、ネット上でもどこにも居場所はないことを悟った。


そして口々に彼らは言う。

「冗談が通じないのかよ」と。


私は、今も今までもずっと苦しいままだった。